ろじかりずむ

好きなんだから仕方ない

何者にもなれない彼らの話

※2016/1/10に別所に投稿した記事に加筆修正を加えたものです。

ネタバレあり。

 

映画「ピンクとグレー」を見ました。
色々なことを考えさせられるとにかくハイカロリーな映画だなぁ、というのがいまの率直な感想で、どうかこれが評価され中島裕翔、菅田将暉、そして行定勲の代表作として後々語り継がれるように、小説「ピンクとグレー」を一人でも多くの人に読んでもらえますように、というのが、純粋な願いです。

さて、今から自分の思考メモとして映画「ピンクとグレー」を見て思ったことないしは考えたこと、疑問点などをつらつらと書き連ねたいと思います。また見たらちまちまと追加予定。自分用なので読ませるつもりはないので時系列めちゃくちゃです。

わざわざ鍵ブログの方をパスを開けてお読みということはもうお判りでしょうが、幾ばくかのネタバレを含む可能性が有りますので未視聴の方はどうかお読みにならないで下さい。(読んだからって何かが変わるわけじゃないですが、1回目は先入観無しで見て欲しいなぁというタイプの作品でした。)


1/9(1回目)
一口で言うと究極の同人誌、二次創作物と言ったところでしょうか。
もしくは小説「ピンクとグレー」がα世界線で、映画「ピンクとグレー」はβ世界線のお話で河田大貴の選択肢によって展開が、結末が変わったような感じ。
原作忠実厨の私は中途半端に原作を残したり削ったりしたせいで整合性が崩れ解りづらくなった箇所に対する憤りを少し覚えました。
しかし、一映画として原作を切り離してみるとエンターテイメントとして素直に面白い作品であり、原作に忠実じゃなくても一つの映画としてちゃんと成り立ち面白い作品になるのだ、と知ることが出来たのは実写化アレルギー持ちの私には大きな経験でした。

行定監督がインタビュー等々で「原作焼き直しだと原作の面白さに勝てないからこそ大胆にアレンジした」*1と仰ってたのを聞いて、映画「ピンクとグレー」には不信感しか無かったのですが、なるほどこういうことか、面白いじゃないか畜生。
原作そのままだと確かに美しい世界にはなっていただろうけれど、ここまで人の心を鷲掴みにするようなインプレッションの強さは生まれなかったし、映像として伝えるということを考えるとこれが一つの正解かなぁと思っております。だって面白かったんだもん。

前半は本当に原作に忠実で、「ああ、あのシーンが映像に!」「ごっちが!りばちゃんが話している!」とただただ原作ファンとして感動する62分間でした。
木本が居ないからスタンドバイミーのエピソードが削られていきなりの「リバーフェニックス」が分かりづらかったり、「待ち合わせはデュポン」「香凛がデュポンでサリーがラブホのライター」等のエピソードが無くなったからデュポンとキャバクラのライターを何故交換したのか物凄くわかりづらかったけれど、尺とか考えたら仕方ない。そもそも東京のイケてる男子高生*2が団地住み幼馴染に改変された時点で、ごっちとサリーではなくりばちゃんとサリーが付き合う時点で様々なことの整合性は取れなくなっているのだからそんなことは悲しいけれど瑣末な問題であり、物語の本筋には関係がないので私は目を瞑ろうかなと思います。ただ、原作に忠実なピンクとグレーも何処かで見たいなぁと思ったので誰か10年後とかにリメイクしてくれないかな。

ただ、ごっちとりばちゃん2人のエピソードやサリーとごっちの話が削られて無かったことにされているのはただただ悲しかったです。お誕生日会のシーン、原作は凄く楽しくて美しくてこのまま時が止まればいいのにって思うくらい大好きなシーンなのですが、映画では楽しそうに準備をするりばちゃんとサリーの意に反して誕生会は主役不在で中止になり、結局日付を変わった頃に帰ってきたごっちは大して喜んでくれない。辛い。悲しい。2人と1人のすれ違いを描きたくてあのシーンを入れたのだろうなとは想像できるけど少し悲しい。
文化祭当日の話、吉田拓郎のフレーズ、ピアスホール、同窓会の後飲んだエビの卵の色をしたカクテル。性別が変わるオニアンコウ。ああ、なんか寂しいなぁ。2人の関係性を象徴付けるようなエピソードが大方無くなってたので単純に悲しくて切ない前半部分でした。

しかし、この映画の本当の主題を視聴後考えると、2人のエピソードを削ったことは映画として正解だったのかなぁと思います。

原作は「同化」の話。映画は「決別」の話。

原作で最終的に河田大貴は白木蓮吾を演じきったのち、鈴木真吾になろうとします。メスに寄生し一体化するオニアンコウのオスのように、河田大貴と鈴木真吾は最終的に一人になった。まさに「絶望的に素晴らしいこの世界に僕は君と共にある」のフレーズが主題であり、恋とか愛とかの類ではない感情を持って繋がっている2人は最終的にすべて分かり合える、そんな話。だからこそ2人の強い結びつきを表すエピソードが重要であり、話の本筋と関係が無くとも散りばめられる必要があった。

一方、映画は「決別」がテーマ、だと私は思いました。完璧にごっちを演じ切って一躍時の人となったけれど、やっぱり河田大貴は河田大貴のままで鈴木真吾が、白木蓮吾が考えていることなんて結局理解できなかった。理解できなくても良い、やっとごっちから解き放たれただ一人の唯一無二の「河田大貴」になって物語が終わる。「理解し合えてない」ことを暗喩するために、河田大貴側の記憶である前半部分の自伝ではそういうエピソードが削られてて、「あれ?この二人そんなに仲良くなくない?」という印象を観客に与える役割を果たしたのかなぁ、なんて。

2人の関係性の原作との違いがまた面白いなぁと思いました。寄り添う原作、離れ行く映画。
今回の映画はスピンオフ「だいじなもの」的世界観に近く、原作が加藤成亮加藤シゲアキが殺す物語だとしたら、映画は結局何者にもなれないことをしった加藤シゲアキが俯瞰で客席から見てるような。映画中に加藤成亮加藤シゲアキの影を感じなかったのは大きいなあと思いました。

さて、「62分後の衝撃」「62分後ヤバイ」の言葉遣いの悪さやチープさが目立つ陳腐なキャッチコピーを忌んでいたのですが、なるほど確かに62分後の衝撃だ。もうちょっとIQ下げるなら62分後のマッッジヤベエ!!つよい!
前半が劇中劇であることが62分後にわかる、という展開はあらかた予想が付いていたので「カーット!」の声も、嗚呼、はいはいそう来るよね、と想定内だったのですが、物語から色彩を一気に奪い取りまさに甘くほろ苦いピンクのような淡い青春ストーリーが文字通り一気に仄暗くグレーで白黒の世界になるとは。
俳優陣の演技の振り幅も大きくまるで本当に別人のようで凄かったなぁ。やっぱりキャスティングに本気を感じる。
菅田将暉の演技力はバケモノのようであるしそれに対抗出来る中島裕翔も凄い。2人の代表作になってほしい。
あと、役者陣で個人的に一番評価したいのは小林涼子さんです。物語のメタファー的存在である唯をここまで完璧に美しく演じきるとは。他の登場人物は皆虚像であり、原作とは少なからず多からず変わった部分が多くそれがまた魅力なのですが「鈴木唯」だけはそのままだった。唯のしなやかさ、美しさ、母性、皆からの憧憬を受けてなお気高い姿完璧すぎて本当に大天才小林涼子!やっぱり彼女の演技が凄い!そしてこの役に抜擢した監督も凄い!*3

映画内の女性の扱い方が加藤シゲアキ小説的女性観と似通っていて密かに感動と興奮を覚えた。
私は加藤シゲアキの小説内における女性は基本「象徴的存在」か「人形」のどちらかに区分できると思っており、男性中心世界におけるいわゆるコマのようなものだと捉えている。だからほとんどの彼女たちから生気を感じないし、生々しさがない空想上の2次元的虚像だと思っている。加藤シゲアキが単に女性に全般に対して恨みがあるのか、そういう思考なのか、はたまたアイドルとして女性の影を感じさせないという優しさなのかはわからないけど、それは加藤シゲアキ作品において大きな特徴であり面白さである。
映画「ピンクとグレー」は原作に忠実、否原作以上に女性観が彼の小説の世界観に近寄っていた。
まず、「サリー」が男たちの都合が良いように動かされてるのはまさに「人形」。
りばちゃんから二度も三度も強姦紛いの暴力を受け、荒んだ彼が自宅に居座っても文句も言わずただ淡々と養う。叫んだり泣いたりすることもある彼女だけれど、あまりにも都合が良い存在として扱われすぎていて彼女自身の感情がまったく見えてこない。虚像的であり、二次元的。三角関係などと銘打っていたけれど結局映画のサリーは主役2人にとって、成瀬にとってのコマで彼女自身のことを考えている人は彼女本人含めて一人もいない。
「三神麗」、貴方は何者?この映画には「僕は誰なのか」「僕は何者なのか」というテーマも内包していたように感じたが、三神麗と成瀬凌はまさに虚像of虚像、全て嘘で塗りかためた2人で彼女と彼をりばちゃん同様私たちも理解できない。三神麗は全てが虚像であり2次元だ。
「鈴木唯」は「象徴的存在」、いわば女神的存在。であり、原作以上にごっちにとっての憧れであり、追い求む場所。彼女はただ淡々と全てのことをこなし、まるで元から死んでるのではないかというくらい生気がない。儚く、触ったら壊れてしまいそうなそんな女性。
女性観が本当に忠実で凄い好きなポイント。

6通の遺書。どうして中途半端にその設定だけ残したのだろう。そして原作りばちゃんが選んだ「やるしかない。やらないなんてないから。」とはたぶんこの世界線で選んだ遺書の中身は違うのだろうなぁと感じた。パンフ内にてここについて「謎は謎のまま残した方が面白い」と監督が仰ってたのでそういうことも起因?「やるしかない。やらないなんてないから。」世界線りばちゃんはごっちとの同化を選んだけれど、「自伝を書いてくれ」という旨が入った遺書を選んだ映画りばちゃんはごっちとの決別を選んだ?ここの箇所がイマイチ掴みきれてないので2回目以降はここについて考察。

「アイドル映画」と色眼鏡で見て欲しくない、と監督は言っていたが中島裕翔のプロモーション映画としては最高の出来だった。「アイドル映画」って言い方は陳腐な感じするけど、アイドル中島裕翔がここまで出来るんだぞ!って示すためにはここまで優れた映画は無いし中島裕翔入門編として最適かも。そういう意味では「アイドル映画」の最高峰。


この映画を見て「この映画を見た人は原作『ピンクとグレー』を映画視聴後でもいいからちゃんと読んで欲しい」と強く感じました。原作もそんなに読みやすい話では無いけれど、映画でわからなかっただろうポイントとかはちゃんと書いてあるし、何より新しい発見があると思います。原作と映画は全くの別物ですが2つでセットだなぁと感じました。
というか、観客が原作読了ありきで作られている箇所が多々見受けられるので読まないと置いてけぼりな感じがします。そういう暴力的な作りに感じる。
もし映画を見てつまらなく感じたりわかりづらさを感じたならば、ぜひ一度原作を手に取ってから物語を評価して欲しいなぁと切に願っております。


この映画は賛否両論両方出てもおかしくないし、むしろ出るべきなのだと思います。激しい嫌悪感や違和感を覚えさせたらそれはそれで映画のつくりとして正解。だって後味悪いし、原作厨だったらこの映画許せないもん。この映画を受け入れきれなかったら受け入れきれないでそれはそれで正解だと思います。
映画を見た人同士の議論や考察でこの映画は育つのだと思います。
昨日より映画鑑賞後の人たちによる「ピンクとグレー」感想掲示板掲示板に書き込ませて頂いたり皆様の感想を拝読したりしてるんだけど本当に面白い。まるで自分がリリィシュシュのすべての世界の登場人物じゃないかと錯覚するくらいエモくてアツい。

とりあえず一回目の感想はここで締め。映画どうかヒットしますように。小説「ピンクとグレー」売れますように。

 

2回目(2/19)

だいぶ間が空いてしまった。

2回目は1回目で感じたことの答え合わせのつもりで鑑賞。

この映画を観る前に「だいじなもの」というスピンオフが野生時代に掲載され、そちらを読んだ際に「ピンクとグレーを書いた加藤成亮の消失」を感じたのだが、この映画「ピンクとグレー」もあの加藤成亮が書いた小説「ピンクとグレー」らは大きく離れているように感じた。

 

(だいじなもの感想)

加藤成亮はもう居ない - ろじかりずむ

 

これら2つに大きく関係する「作者の不在」。

同時期に映像化された「傘をもたない蟻たちは」は逆に作者・加藤シゲアキを否応なく視聴者が意識するように作られた作品だった。

いわば、これからを担う作家・加藤シゲアキの大々的なプロモーションビデオのような存在感。

本編はおろか、主題歌、間に挟まれるCMにさえ加藤シゲアキの姿が登場すればたとえファンじゃなくとも彼を意識せずにいられないのである。たとえ無意識でも加藤シゲアキの顔が、声が、視聴者の脳内に刷り込まれる。結果、原作小説を手に取る人が普通の小説原作の映像化作品より増えやすくなる。

だから小説の持つ重々しさや痛々しさを犠牲にして「視聴者への親しみやすさ」「話題性」に重きが置かれていたように感じられる。憎めないジュンちゃんや健気で可愛らしいケイスケは原作小説に存在しないが、原作未読で加藤シゲアキの書く小説に馴染みがない層に原作小説を手に取ってもらうには格好のキャラクターであるからだ。痛い目に会うぞ、と思いつつも「傘をもたない蟻たちは」という小説を売り出すにはこの戦略は正しいと思う。

 

「ピンクとグレー」は逆の戦略をとった。

映画という形式をとるうえで作者が出張ったり、宣伝臭がするものは辟易されがちだし、映画としての評価を得るのに不適切だから。というか作者の影が見えるのはたとえ誰が原作者であろうと不愉快だし興ざめする。

そういう一般的な売り上げや評価についての考察を抜きにしても「加藤シゲアキ」は「ピンクとグレー」に存在しえないのだから「加藤シゲアキ」はおろか「加藤成亮」の影すら一切存在してはいけないのだ。

その点を踏まえてカメオ出演は正しかったか?

うーーん。2回行って2回ともすぐに気付いたくらいの存在感なので私からしたらすごい不自然なんだけど・・・

アレが「加藤シゲアキ」ではなく名もない映画プロデューサーやあの世界の一俳優としての役というのならまだ許容範囲だけどアレは一体誰(役)なんだろうね?

そう考えると半ば強引にだけどこの映画のテーマの1つである「お前は誰なんだ?」に繋がるから面白いけど、加藤さんが出たいって言ったら出れたみたいな感じだから特に意味はないんだろうなぁ。まあ初映像作品だから大目に見る。

 

小説「ピンクとグレー」が相互理解の物語なら映画「ピンクとグレー」は決別の物語である、が私の中で一つの大きなテーマで今回もそれを念頭に鑑賞したのですが、りばちゃん(中島)も心の底では人と人が分かり合えないこと、全部がわかってもらえないことを理解したうえであの小説を書いたんじゃないかなぁ。

ごっちとのことは誰にもわかってもらえない、だったら本当のことなんて誰にも教えない方がいいじゃないか。

芸能界の嘘とリアル、の触書がやっとしっくりきました。嘘と呼ぶには美しすぎるけど偽ってでも白木蓮吾を美しいまま残したかったりばちゃんの意思と、本当のごっちはそんな美しくないと彼を蝕もうとする現実(リアル)の醜さ。それでもりばちゃんはごっちを守ろうと必死だったんです。

だから前半のりばちゃんはどうしようもない屑で、ごっちは少女漫画の相手役みたいなかっこよさだったのかなぁ、と。

本当彼は自分にも分からないし、読者にもわかってもらえない。

ならば、彼はカッコいいまま、伝説の男として美しいままみんなの記憶に残ってほしいじゃないか。だからこそのあの前半だったのだと思います。

きっと成瀬が言うように、芸能界入りした後の本当の白木蓮吾はおっぱいパブにも行っていたし、香凛以外にもいっぱい女がいたかもしれない。でも、俺はそんなところ見たことないし、白木蓮吾が好きだったファンだってそんなところが知りたかったわけじゃないだろう。

どうせ夢なら甘い夢のままで。

河鳥大の描く「ピンクとグレー」は大好きなごっちへの盛大な贐であり、同時に”かっこいいごっち”への夢であり幻想だ。

映画のりばちゃんも小説のりばちゃん同様とても優しくて繊細でごっちのことが大好きなのである。

どうやら君のことを勘違いしてたみたいだ。ごめんね、りばちゃん。やっぱり私は君のことが好きだよ。

ごっちは本当にりばちゃんのことが大切だったのか?

あの映画からはわからない。だってあれはりばちゃんの物語だからだ。

人と人は分かり合えない、それでいいのだ。人が本当に考えてることなんてわからない。

それでも最後にりばちゃんを救ってくれるのはごっちだから、りばちゃんの中ではごっちは優しくて頼りになる、やっぱり敵わないかけがえのない男に映ってたわけで。

それでいい。それさえあればあの世界は美しいのだ。

*1:ニュアンス。詳しい言葉回しは現在発売中の雑誌やインタビュー等でご確認ください

*2:っていうか青学生

*3:という話を中島裕翔ファンのお友達にしたら「ろじこちゃんは本当に小林涼子ちゃん好きだよねー」と言われました。だがしかし今回は贔屓目なしに凄い