ろじかりずむ

好きなんだから仕方ない

虹の途中~「あやめ」感想~

曲が終わり、照明が消えた瞬間「てんさい」とただ一言呟いた。その記憶だけはなんとなく残っているのだけれど、泣いたとかがつんと刺さりすぎて抜けないとかそういうことはもう何も考えられなくて、ぼーっと過ごしていたらステージには4人のNEWSがいたし、かろうじてシリウスで「わーい!シリウスだ!」って思ったけど、あんなに大好きな曲を「わーい」ごときで済ませられるとはどうも気が動転していたようだ。


私の好きな人は神様になってしまったのかもしれない。あの曲とあの演出は間違えなく神への昇華の過程であり、遠く遠く寂しく感じつつも恐ろしく興奮した。

 

 

 

考察とかじゃないです。そういうのはもう博識な人に任せよう。人のブログ探すの下手くそで見つけられてないけどたぶん書いてる人いっぱい居ると思うし(あと私がこの記事を書き終わり次第、個人的に読みたいので書いてる人、ご自身でリプライとかコメントとか直リンクとかで教えていただけたら嬉しいです!笑 怠慢!)。分かりきっていたことだけれど、私じゃ力不足だしもはや必要の無い作業だ。モチーフとかほんとわかんないので他の人に聞いてね、ごめん!*1

 

ただ、忘れたくないんです。私が見たもの感じたものをなるべく新鮮なままで残しておきたいというか、だからメモだな。メモの清書と呼ぶのが正しい。

そんなに書いてないつもりだったんだけど、あやめに関する文章(彼のあやめだけの話です。それ以外のことは知らん。それについては今記事では触れてませんし、今後私が言及するつもりもございません!それこそ他の人のブログ読んであげて!)思いの外いっぱい書いてたので、貧乏性が故まとめます、って感じかな!

さて、ひとまず、これでNEVERLANDに関するブログは終わりです!寂しい!

 

 

 

引いてくれていいよ。引いてくれ。

6月11日、最終公演。飛び降りなくって良かった、と安堵してしばらく立ち上がることが出来なかった。

自分でもおかしいと思う。飛び降りるわけ無いじゃんね、死んじゃうじゃんね。Yahooニュースどころじゃないしそれこそ解散沙汰だ。こうして言葉にするだけで心臓に悪い。

でも、確かに彼はてっぺんから飛び降りると、そして、「飛び降りないでくれ」と、私は感じてしまって、その悪い予感が実現しなかったことに心から安心したのであった。

 

辛そう、だとか、彼のグループに対する不満?なんて1mmも感じてないしっていうか、ほんとどうでもいいです。

そういったくだらないファクターが故の話ではなくて、ただ「満足」しきったらその生も舞台上で全うしてしまうんではないか、と私は何故かずっと恐れている。恐れていた、かな。

ここでやらなかったらもう無いだろうし、そもそもまだまだこの生に全然満足していないしやりたいことがいっぱいあるらしい。安心した。

 

 

というのもこの演出を初めて見た時、希望の話だとか多様性の話だとか壮大な愛だとかそういうわかりやすいテーマもあるけれど、それ以上に「死生観」の話だと思って、ぞっとした。

 

生まれる、悩む、悩み抜いた結果決意を固める、天寿を全うする、消える。

 

生まれたままの姿で横たわる主人公は、周りに同じようにひらひらとしたダンサーに囲まれ踊りだす。
苦悩、悲しみ、このままでいいのか、本当の自分はどこにあるのか。

「ここは乾いたただ 荒野
それでも前向いて歩こうや」

新しいことをはじめる、今いる場所を、立場を去る、怖い、また0からになってしまう。それでも前を向こう、という決意。

決意を手に入れた主人公は強い。
それまでとはまるで打って変わったように意志の強い表情に変貌し、歌声も力強くなっていく。

光の橋を渡る。決意を手に今までの場所から去る。

 

青年の登場で光を手にした世界は、虹の旗をふわりと振ることで響く乾いた空気の音と共に真っ暗になる、それはすなわちあの青年の死を意味しているのではないか、と。

 

また、恐ろしいまでにピンクとグレーだったんですよね。同じ話何回もして申し訳ないけれど、前回ブログ該当部分抜粋。

 

コンテンポラリーダンス、天に昇り祈りを捧げる姿、彼こそが白木蓮吾であり真吾の姉の唯であり、彼らに対する鎮魂歌のような神々しさを感じる。不謹慎だけど「ピンクとグレー」の葬式、自らの手から離れ全く別モノとなってしまった「ピンクとグレー」というコンテンツを、男同士の友情の話を「BL」だなんだ曲解され笑い物にされることを(そしてボーイズラブと呼ばれ同性愛を貶される風潮、LGBTの理解やそれに優しい仕組みの普及が進まないこと、否定される"愛"があることへの哀しみややり切れなさを)、それを書いていた頃の人間らしい自分を葬ったかのように憑き物が落ちたような清々しい顔だった。
これ、映画監督にやられてたら私はその映画監督を一生恨み続けたから、ピンクとグレーと全く関係ない加藤さんのソロで本当によかった!作者は一緒なんだけどね、コンサートの演出として昇華されたのが本当によかった。誰がやるにしろこの演出を行うなら、舞台とかせめてステージ上で見たかったから。

 

 

真吾は真吾の姉である唯のように綺麗に死のうとして、大貴は真吾と同じように同じ部屋で同じ服装で同じシチュエイションで首をつるんですよね。

では、「青年」は誰に同一化しようとしたか。

解釈の問題なのでまた本当のことは誰にも分からないのだけれど、私は「唯は舞台に立った時点で頂上から飛び降りようとしていた」「あれは事故ではなく彼女の意思だ」と思っていて、だからこそ、クレーンを命綱もなしに駆け上がっていった彼を見て、デジャヴを感じて、凄く怖かった。「落ちたら死ぬ」「命がけ」「リハではやらないもん」と言っていたのがとにかく怖かった。あそこから落ちるのも事故として見せかけることが出来るわけで、クラウドで言ってた「自分の中の芸術性を全部ぶつけた」ってそういうことかよって。

 

シンエヴァシンゴジラ、シンピングレ?新訳って感じがした。映画化を受けて、作者自らの新訳。だから、確かに「あやめ」の作者は加藤シゲアキなんだけど、「青年」は登場人物的で、「加藤シゲアキだ!」とはならないわけです。別のひと、みたいな。

分かりやすく言うと、アイドルの加藤シゲアキはあの場面でも別に普通に駆け上って普通に降りてきて、それこそヴァンパイアのフライングとかESCORTでカゴに乗るのと一緒で、そういう演出だし、そういう見せ場だし、それを全うしないのはむしろ違うじゃん、でも別人に見えたから怖かった。

ただ、青年はアイドル加藤シゲアキでも作者本人でもないけれど中の人は一緒のわけだから、飛び降りられたら困るってわけよ。だから故の安堵感?

 

 

加藤さんは飛び降り無いし生きているし今日も元気だから私はこうして今脳天気にブログなんぞを書いているわけです。めでたしめでたし、と。

 

 

でもね、どうしようもなく怖かったと共に幸せでもあったのだ。こっちが本題。

「あやめ」はまさに「NEVERLAND」というコンセプトをまさに体現したような演目であった。

自らの無力さを嘆く青年ことが民衆と出会い(人とのふれあい、成長)、「ただ前向いてあるこうや」「んなもんいらねぇ、飛んでやらあ」と決意を固める。

虹の頂上のシーンなんてまさに、レミゼラブルの民衆を導くシーン、フランス軍を導くジャンヌダルク。ホットなネタでいくと砂漠の鷹軍団の前に現れたサリオキスを見たときに「あやめだー!」ってなりました。つまりそんな「希望」の象徴。

 

NEVERLAND、子供が永遠に大人にならない夢の国。

夢の国だからこそ、「愛」や「希望」で満たされていて欲しい。「あやめ」はまさにそれを体現しているようで。

ぱっと見の印象じゃ「こいつ暗いなあ」とか「前衛的すぎて分からないよ!!!!!!!」ってなるのも十分仕方ないんだけれど、そういう先入観なしに見るとわかるはず。

 

ゴッホも描けない愛の美しさ」

「空から落ちる蜘蛛の糸 んなもんいらねぇ飛んでやらぁ」

 「雨の弓を渡れ 超えろ 抱き締めろ」

 

「蜘蛛の糸」はもちろん言わずと知れた芥川龍之介の「蜘蛛の糸」オマージュ

「雨の弓」、すなわち虹。英語で「Rainbow」は「Rain(雨)」と「Bow(弓)」なため。堂本剛さんも「雨の弓」という楽曲を出されていましたね。

どれも奇跡の象徴です。奇跡を超えるようなそんな愛。

 

愛が奇跡を超える瞬間を、そしてその愛が希望になる瞬間を私は確かに見てしまったのだ。そんな瞬間の目撃者になれた、こんなに幸せなことがあるだろうか。

私のNEVERLANDはここにあった。

 

 

あとは「死生観」とも近いけれど「卒業」の曲。

想像もつかないような衝撃を受けた時、人間は本当にマンガのように膝から崩れ落ちる、なんて知りたくなかった。

その日はまりあちゃんの凱旋公演すら犠牲にするくらい大切で大好きなアイドルのコンサートに参加する為に静岡にいた。席は一番後ろだったし、前列に少し迷惑行為を働く人間*1に少し気分が滅入ったりしたけど、すごくすごく幸福で楽しい気持ちで、友人と連絡を取る為に何気なく開いたTwitterアプリで真っ先に目に入ってきたのが「工藤遥 卒業」という文字列だった。

すごくすごく楽しみにしていたコンサートだったのに、一瞬で全部がぱぁんと弾け飛んで、その後、共に夕食を食べる為に現れた友人に発した第一声は「工藤遥ちゃんが、」だった、ような、そんな記憶がある。
未だに夢を見ているみたいだ。

(中略)

次の日も静岡でコンサートであった。
ただ、その日にモーニング娘。が名古屋でコンサートする、と知っていたので、こんなに近いのなら、どうしてもそちらに行かなくてはいけないのではないか、工藤遥を極限まで見なくてはいけないのではないか、誰がいつ卒業するかわからない、なんてそうしたらその日はまりあちゃんの最後の凱旋になる可能性だって捨てきれないのではないかなぞとと錯乱して、悲しくて、電車の中で泣いてしまった私は側から見たら不審者であっただろう。

結局、私はそのまま静岡に残って、一旦全てを忘れてNEWSのコンサートを全力で見届け楽しんだ。

 

その中で披露される「あやめ」という楽曲がある。

敬愛する加藤シゲアキさんのソロ曲で作詞作曲演出全て加藤シゲアキ。シゲワールド全開!で「多様性」だったり「壮大な愛」をテーマにした楽曲だ。

コンテンポラリーダンス、と呼ばれるジャンルのダンスで全身全霊、鬼気迫る表情でステージの中心で舞い踊る彼を見ると不思議と「ああ、この人はすごいなあ」だとかその芸術性に感動して、涙が溢れる。
愛の美しさとか、それを伝えようとする彼の姿が一つの芸術作品であり、長いクレーンの上へ駆け上り、旗を掲げ歌う様は照明も併せてさながらジャンヌダルク的であり、神々しさを感じる。
特に好きなのはポエトリーリーディング部分の「こんなもんいらねぇ 飛んでやらあ」と叫んでひらりくるりと飛ぶ時の「決意」を込めた表情だ。

あの演出を初めて見た時、「神への昇華」である、と感じた。

「決して空想 夢想の彼方 今だけはそばにいて」
「あなた」を失うことを怖れ、「紙で切れた指先のよう"痛み"」に苦悩した青年が 奇跡なんかよりも強い「決意」を胸に、光の橋を渡っていく。

 

cause i need u cause i love u
knock knock open the door
never give up, beautiful world
makin' a good thing better

世界は 心の奥底にある
だから僕は生きていく
虹を歩いてく

 

"愛"を知り、"決意"を胸に虹の弧の上で星の光のように周りを取り囲む大勢の民衆に向かって"伝えよう"と叫び続ける姿は本当に神様みたいにきらきらしている。

工藤遥卒業を知ってから、改めてゆっくりと演出を見る。
それはまるで「決意の曲」、そしてアイドルと卒業の関係図のように見えて勝手に重ねて勝手に泣いた。

 

生まれたままの姿で横たわる主人公は、周りに同じようにひらひらとしたダンサーに囲まれ踊りだす。
苦悩、悲しみ、このままでいいのか、本当の自分はどこにあるのか。

「ここは乾いたただ 荒野
それでも前向いて歩こうや」

新しいことをはじめる、今いる場所を、立場を去る、怖い、また0からになってしまう。それでも前を向こう、という決意。

決意を手に入れた主人公は強い。
それまでとはまるで打って変わったように意志の強い表情に変貌し、歌声も力強くなっていく。

光の橋を渡る。決意を手に今までの場所から去る。
虹の柄の旗を手に虹の頂上で、歌う姿はとても美しく格好良かった。まるで、アイドルの卒業公演みたいだ。

 

cause i need u cause i love u
knock knock open the door
never give up, beautiful world
makin' a good thing better
「私はあなたが必要、あなたが大好き。
さあ、(新たなる)扉を開けて飛び立とう。
諦めないで、世界はこんなにも美しい。
よりよいものが作れるよ。」

 

あなたは私(主人公)自身で、私(主人公)はあなた。自らで自らを励まし、夢への想いを強固にし、誰にも言わずにその旅立ちを1人で決意する。

 

ただそれだけ、それだけなんだけど、そうやって感じたことによって、「女優」という夢に向かって、決意をした工藤遥はかっこいいのだなあ、と思って、卒業は悲しいことであるけど、「卒業」してまで決意や夢の為に走り出した彼女にとって誇らしいことでもある、と少しだけ前向きになれた気がする。
少しだけ、少しだけだ。まだ怖くて信じたくなくて、ネットニュースはわざわざ友達に内容を読んでもらって教えてもらったり、メンバーのブログやハロープロジェクトの情報収集用のTwitterアカウントを開けない自分がいる。
どぅー推しじゃないのにこんなに後ろ向きなのが申し訳ない、けれど、残りの半年、そして女優として羽ばたく彼女の「決意」を無駄にしないように、彼女を見守りたいと思う。

勝手に重ねてるのは私だ。私だけだと思う。でも、「卒業」という何より決意がいることを決めた彼女の瞳は確かに「あやめ」の青年の強い瞳と同じ色をしていたのだった。

決意を決めた人って言うのは強い、青年もきっと決意を決めてあの場所から旅立った。人の決意というものを美しく感じた。

 

 

個人的な話なのですが、昨年末くらいから文章を書く、という行為がどうも出来なくなって。その割にはエントリ多いじゃねえかとかその前から書けてないよって言うツッコミはやめて!笑 大丈夫、自分が一番わかってるよ!笑

クオリティの問題というか、そもそも頭の中に降ってこない、今まではブログにしろ論文にしろレポートにしろそれ以外の文章にしろキーを打ってる時点で次のフレーズや次のトピックスがもう「次は私!」ってうるさくて、私にとって文章を書くことが友達みたいな、もうこのブログなんて居酒屋で友達に「聞いて聞いて!」ってひたすらに壁打ちしてる感覚。

でも、全く書けなくなったんです。すごくつまんない。誰(フレーズや単語)も話しかけてこないし、完成しても全く面白くない。

他の人からしたらきっと「そんなくだらないこと」なんだろうけど、私、ほんっとうに友達いないからさあ、「そんなこと」が地味にキツいわけですよ。別に誰にも読まれなくてもいいけど、私の書く文章くらいは私と友達で、私の味方でいて欲しかった。私から生まれてるのに私自身が好きになれないなんて、私の一番の解釈違いでしょう。

だから、もう「自分の作ってるものに自信しかねえ!!」って感じの加藤さんが眩しすぎて、見てるのすら正直しんどくて(それでも顔が好きだから見るんですけど)、私なんでこの人のファン名乗ってるんだろう、って毎日自己嫌悪で。

自分に身がないからなんだけど、もう20何年間くらいそれを無視して突っ走ってきたツケがここに来てるというか(笑)

アルバムの時も自分で企画しておきながら「ほんっと自分の文章つまんねえなあ!!!笑」って思ったし、その中でも一番顕著だったのが「あやめ」についてどうしても言語化できないと言いますか、割と享受したものの感想本人に伝えたくなっちゃうタイプの人間なんだけど、この曲に関してはラジオだったりファンレターも1文字も書けなくて。気持ち悪いおたく一人死んだじゃん!これを機にゆるくふわく「好きしか♡」とか「やばみ♡」とか言ってればいいじゃん、って思いたかったんだけど、もう世界から一人だけ取り残されてるかのようにひたすら寂しくて。こんな芸術性の塊みたいな人好きなのに自分には何にも無いし、私には享受出来なかったんだな、「多様性」に含まれない方の人間なんだな、って。

 

生で見たからって文章が書けるようになったとは思わない(なぜならこれは私自身の問題だからです。)し、今だって手探りが故同じ単語何回も繰り返したり、迷い語が多いのだけれど、でも、それでもいっか、と少し楽になれたのは事実。

 

 

 

芸術だった。岡本太郎草間彌生
演劇はあいにく詳しく無いのだけれど、あやめだけはコンサートではなく帝国劇場のミュージカルであり下北沢の小劇場であった。
これね、他に誰もできないよ。そもそもジャンルが被らないっていうのがあるんだけど真似したって無理だしフリコピしたって同じにはならない。
加藤さんの思考思想生き方を濃縮還元したかのようなパフォーマンスであった。

理解できない人の方が多いと思う。万人に理解させる気もないと思う。現に後ろの席の2人組の少女はくすくすと笑い声を発していたし、会場はざわめいた。
理解できないものを否定する、笑う、という行為はあの曲の存在意義への否定だ。万物を愛し、万物を理解しようと試みる加藤シゲアキという存在自体の否定でもある。
たぶんね、あの人もこの演出を万人に分からせようとしてないしむしろ「?」ってなったり笑う人がいても仕方ないとかそれが世界の縮図とか思ってるんだろう(加藤さんそんなに重くねーよ!笑)けどなんでか勝手にちょっと寂しかったなあ。
理解できない他者をバカにしたり笑ったりするのではなく、理解できなくても存在を受け入れる、その存在を肯定するということ、言葉にするのは簡単だけどスゴく難しい。現にあんなちっちゃいマリンメッセですらできてない。でも、私はちゃんと分かったよ、わかった気になってるだけかもしれない。でも、私は私なりに受け取ったメッセージを絶対に忘れたくないと思った。理解できないものを否定しない、受け入れる、最近ちょっと出来るようになったのは間違いなく貴方のお陰です。ありがとう。

 

 

他者を受け入れられるようになった、と初見時の感想に書いたが、それと同時に自己を受け入れられるようになった。

どうしようもなくダメでもいいじゃん、元々ダメじゃん、って。

自己を受容することではじめて他者を受け入れられるのだと気づいた。私は偏屈な人間だから、興味があるもの以外全く興味が無いし、一回好きじゃないなと思ったらそこから好きになる努力はしないし、食わず嫌いとか無関心で切り捨ててたものいっぱいあるんだけど、ここ数ヶ月でかな、やっとそういうものに少しずつ興味が持てるようになった、視野が広くなった、そんな風に感じるんです。

食わず嫌いをやめた数ヶ月は随分と息をするのが楽です。NEVERLANDのチケットがない期間、ここぞとばかりにいろんな舞台やライブに行ったのですが、もっと早く知りたかったってくらい全部楽しかった。YJアレルギーの象徴、Jin Akanishiのライブは楽しかったし、髑髏城の鳥のチケを取って(月のキャストまだーーー???????捨ノ助に生田斗真ちゃんどう?????)、ねもしゅーの次の舞台を心待ちにする日々なう。こぶしファクトリーつばきファクトリーもかわいかったです。あと不倫する人間はやっぱ受け入れられなかったけど「あなたのことはそれほど」が死ぬほど面白いのでみんな見て。TBSドラマへの先入観(苦手意識)を取っ払ってよかった!!!あんな面白いドラマもうないよ!歴史物は苦手だし舞台かあ、まりあちゃんの出番少ないだろうなってチケット半分手放したけど、ファラオの墓でめちゃくちゃ泣いた。もっとファラオ入っておけば良かった。ファラオの円盤早くして・・・・・本当に食わず嫌いは良くないね。

 

あとは、いろいろあったらしい、けど、そういうことに対しても穿った目線で軽率に怒ったり茶化したりしなくなった。見てるものだけがすべてだし、見てるもので許せなかったら「許せないな」と感じることはあるけれど、もうステージ上で見てるものがすべてでしょ、それ以外の時間がどうあろうと真実なんて何も分からないし、それこそどうでもいい。時間外労働を求める気は無いんだわ。ステージ上のあなたが好きだから、ステージにさえ立っていてくれればいいよ。それ以外のところでは後悔しないように一人の人間として生きて欲しい。それ以上求めません。求めないし、詮索しないし、例えその姿が私の望む姿じゃなくても、受容して否定しない。

 

こんな言い方をするとまた「重すぎる!」って言われるだろうけれど、私は「あやめ」と出会ったことで間違いなく人生観が変わったし、世界に少しだけ優しくなれた。

 

虹を渡る彼を下から見れて良かった。誰よりも神々しかったし私の救いだった。

 

果たして彼は神だったのか、それとも民衆を導く"光”だったのか、はたまたただの人間であったのか。

答えなんてきっと何処にもない、無いからこそすべてが正解なのだろう。

 

光のエリアを統べる彼は間違いなく私の光だ。

 

 

次回以降も期待しかしてないよ。でも次はソロに8150円じゃなくてコンサート全体に8150円を払う感覚で全部全部楽しむし受け入れる。それくらいソロもNEWS自体も好きだし楽しみ。

 

さあ、次の旅に出ようか。

*1:一個だけ言うと、本人はあれを芥川だと思って書いてるけど芥川より太宰的だって話は誰かお酒を飲みながらしよう!